ADA

今日は建築デザインについて書きます。
ADAとは、Americans with Disabilities Act アメリカの障害者に対する法律です。
アメリカは皆さんが知っての通り公民権運動が盛んです。人種、性別に始まり出身国に対する法律もあります。人種はマーチン・ルーサー・キングで有名な公民権法で、性別はウーマンリブ、女性解放運動、双方とも1960年代に起こっています。ADAも同種の法律で、制定は1990年で案外最近なのです。
日本では建築福祉の分野でバリアフリーという言葉がありますが、アメリカにもユニバーサルデザインという言葉があります。ユニバーサルデザイン(UD)は、1980年代、ノースカロライナ州立大学のロン・メイス教授が世界で始めて障害者の為に提唱したデザインのことです。まだ建築設計に携わって間もない頃、私はバリアフリーとUDの違いがどうにも気になってしかたがありませんでした。その時には直感的なものでしかありませんでしたが、根本的に違うような気がしてなりませんでした。UDのほうが華やかで豊かに見えたのです。(ゴメンなさい、誰かに怒られそう・・汗)そして、その奥底には今後建築を作る上で何かの重要なヒントがあると感じていました。
そしてUDの世界的権威エドワード・スタインフェルド教授がいるニューヨーク州立大学に私は行きました。その頃ロン・メイス教授は既に亡くなっており、エド先生が第一人者でした。ロン・メイス教授は身体障害者で車椅子生活でしたが、エド先生は健常者、そんなところも私は興味がありました。何故その道を研究しているのか。
アメリカに行って気づいたのは、UDが多様性の社会基盤をつくる上での必要性から生まれた思想、デザインであるということでした。ここまでは、日本のバリアフリーとさほど変わりません。しかし、何故にこうも違うのか?それは、UDには障害者自らの強い権利主張が根底にあるからです。日本のバリアフリーはそれに比べて、健常者が弱者に対しての必要性を汲み取り整備されています。だから私にはデザインが違って見えたのです。
ADAにもどりますが、第一章第一項に現在アメリカには多数の障害者が居て、このマンパワーを利用しきれていない状況はアメリカにとって大きな損失である、ということから始まります。(これちょっとスゴイ!)
これは障害者を弱者として認めていない証拠であり、障害者を見くびるなよ!との強い主張なのです。
エド先生は私に珠玉の言葉をくれました。”障害者にデザインを与えるのではなく、選択肢を与えるのだ”と。その後、私の頭はとってもクリアーになりました。我々健常者が自由にデザインを選べるのと同じように障害者も同じく選択できる基盤をつくった上で、逆に障害者の為のデザインは使い易いだけでなく、ユニークで審美性の高いデザインとして社会認知され、健常者からも選ばれるようになる。それがUDなんですよね。そして、健常者、障害者、そんなカテゴライズはそもそも必要が無い、どっちも同じ人間、という公民権運動がADAなんです。
全くの違う世界の話をしますが、テニス選手のロジャー・フェデラーは、かなりの人格者らしいです。錦織圭が出てくるずっと前に、日本の記者から何故日本のテニスプレーヤーは世界で活躍出来ないのでしょうか?との質問に、何を言っているんだ!日本には国枝がいるじゃないか!と言ったそうです。また、初の年間4大大会、グランドスラム目前の時、達成するのは国枝のほうが早いかもしれないと言ったそうです。
国枝慎吾選手、車椅子のプロテニスプレーヤー、パラリンピック、シングル、ダブルス金メダリスト、日本が誇る世界王者についてのフェデラーが発した有名な話。彼の世界には車椅子テニスも同等。カテゴライズされていない。カッコいいです、シビれますね。錦織選手は注目されていますが、国枝選手も同じように注目されて欲しいです。
追伸、障害者ことを英語でDisabilityと言いますが、私はこの単語どうも好きになれません。Disは否定の意味、Abilityは能力で、よく考えたら能力を否定していることになります。最近流行っているDisるという言葉からもそうですね。何とも雑な最後になりましたが、このスペル誰か変更してくれないかな??